巻頭特集/グラフェン・テラヘルツレーザーの創出

グラフェンTHzレーザーの原理とアイデア

 グラフェン中の伝導電子は、エネルギーと運動量が線形な関係にあり、伝導帯と価電子帯が対称な円錐形を成していて、それらの頂点どうしが1点で交わります。つまり、バンドギャップのない線形分散特性を有しています(図1)。このため、伝導帯の自由電子と価電子帯の正孔は電荷の極性のみが反転した完全対称な量子であり、かつあたかも光のように質量ゼロの量子として振る舞います。通常の半導体とは全く異なる特異な電子物性です。

 ググラフェンに赤外線レーザーを照射して光電子・正孔対を生成する(これを光ポンピングといいます)と、生成された電子・正孔対は光学フォノンを放出しながらエネルギーを失い、バンド内を推移してゆきます。グラフェンの光学フォノンは、198 meVという極めて大きなエネルギーを有しています。例えば、波長1.55μmの光通信用レーザー(フォトンエネルギー:約800 meV)でポンピングすると、光電子・正孔はそれぞれ2個の光学フォノンを放出してエネルギーを失い、残る約8 meVのエネルギーだけ平衡状態より高い励起状態に至ります。もしもそれらの電子・正孔が再結合すれば、直接遷移によってその遷移エネルギーに対応するフォトンを発光することができます。発光したフォトンの周波数は約1.95 THzですから、THz波の発光が可能となります(図2)。バンドギャップがなく、かつ伝導帯と価電子帯が完全対称なグラフェンならではの“なせる業”です。これは、いわゆる自然放出と呼ばれる発光現象で、自然放出を定常的に実現できれば、適当な共振器構造を用意することで、誘導放出・レーザー発振の実現が可能となります(図2)。

図2 光学励起グラフェンの非平衡キャリア緩和・再結合過程。中央部(フェルミ準位)の存在確率が0.5を越え、反転分布に至っている。

図2 光学励起グラフェンの非平衡キャリア緩和・再結合過程。中央部(フェルミ準位)の存在確率が0.5を越え、反転分布に至っている。

 ここでレーザー発振の可否を左右するのは、生成した光電子・正孔対が光学フォノン放出でエネルギー緩和する速度と再結合して消滅する速度の関係です。もしも再結合して消滅する速度の方が遅ければ、その励起準位に電子と正孔が蓄積されることになります。これはすなわち、反転分布の形成にほかなりません。ただし、反転分布を妨げる要因がいくつかあります。室温下では、熱平衡状態でフェルミ準位付近にエネルギーの低い自由電子・正孔が存在していて、ポンピングによって生成されたエネルギーの高い光電子・正孔との間でエネルギーの平滑化(擬平衡化)が行われ、その分、ポンピングの効率が低下します(図2)。また、THz帯は、グラフェンの半導体としての導電性が有効な電波の領域で、電気抵抗成分にともなう損失成分も無視できません。損失の大小は、電子・正孔が受ける散乱の強さ、言い換えれば運動量緩和時間に依存します。

 このように、グラフェン中の非平衡状態にある電子・正孔のエネルギー緩和過程は極めて複雑な様相を呈します。私たちはこれを高精度にモデル化し、時々刻々進展する緩和の様子を可視化することに成功しました。そして、室温下においても実用的なポンピング強度で反転分布の形成が可能で、かつ、各種の損失分を補って余りある利得が広いTHz周波数帯で得られることを、数値解析によって初めて明らかにしました。

 理論解析の結果に自信と勇気を得て、私たちは早速、実験検証を進めました。実験系に工夫を凝らし、赤外線フェムト秒パルスレーザーでグラフェンを瞬間的にポンピングし、それから数ピコ秒遅れた利得が生じはじめるタイミングで、今度はTHzパルスをグラフェンに照射しました(図3)。すると、一定のしきい値以上のポンピング強度においては、グラフェンを透過したTHzパルスの強度が増大していることが確認できました。この実験結果は、THzパルスの吸収が反転分布状態にあるグラフェン中の光電子・正孔の再結合を誘導し、THzフォトンを誘導放出した結果、グラフェンを透過したTHzパルスが増幅されたものとして理解できます。こうして、グラフェンのTHz帯誘導放出を初めて観測することに成功しました。

図3 光学励起グラフェンにおけるTHz波の誘導増幅放出。イメージ(左)、実験系(中)、観測波形(右)。

図3 光学励起グラフェンにおけるTHz波の誘導増幅放出。イメージ(左)、実験系(中)、観測波形(右)。

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